ギャラリーテン/gallery ten〜コラム vol.19 "瀬辺佳子さんの彫刻""神林學さんという人""アウトサイダーアート""住まい塾とヒト・モノ・コト"

ギャラリーテン/gallery ten〜コラム vol.19 "瀬辺佳子さんの彫刻""神林學さんという人""アウトサイダーアート""住まい塾とヒト・モノ・コト"

瀬辺佳子さんの彫刻 神林學さんという人 アウトサイダーアート 住まい塾とヒト・モノ・コト(ギャラリーテン〜コラム vol.19) <2008年10月号>

瀬辺佳子さんの彫刻

ある日、近所の画廊のオーナーさんに「表田さん、この前おもしろい個展観たよ〜。」と、作品がたくさん掲載されたパンフレットを差し出されました。
「なんじゃ、こりゃーーー!」と、そのおもしろさとアヴァンギャルドなさまに、テンション急上昇↑↑↑
それが瀬辺佳子さんの彫刻作品だったのです。

どうしても実物が観たい。どうしてもご本人に会ってみたい。どうしても忘れることができない。
ついに連絡先を知り、おそるおそる電話をし、ほとんど強行にアトリエに突撃してしまいました。
彫刻家というと、私の偏見に満ちた先入観の下では、芸術家の中の芸術家。
『彫刻家は偉い!』という近寄りがたい存在のように思えていました。
ところが、瀬辺さんにお会いしたら、そんな考えはふっとんでしまいました。
最初から最後まで、ずっと心を開いて正面から対応してくださり、失礼ながらこちらが気遣いすることも要さず、ラフな雰囲気を作ってくださいました。
まるで昔からの知人のように、いろんなことをたくさんおしゃべりしました。
瀬辺さんは外にも内にも好奇と考察の眼が及び、広く深いお話の内容や考え方、明快なお話しぶりで、会話が尽きません。

新鮮な意表をつかれたこの作風は、なんと瀬辺さんが50歳代になられてからとのこと。
東京芸大の彫刻科で学び、その後ずっとアカデミックなブロンズ彫刻を作り続けていた長年の後、「何かが違う。自分の表現したいものはこれじゃない。」と。
突如、アメーバのような物体や、手を口にくわえた抽象の人体ばかり作り、悶々とされていたのだそうです。
暗中模索、試行錯誤の末、ついに比類のユニーク作品に辿りつかれたというわけです。
瀬辺さんは、果敢に前を向いておられる。
「もう怖いモノなんか何もない。やりたいことをやる。つくりたいものをつくる。どこからでもかかって来いッ!」というふうに私には映る。

さて、瀬辺さんのこの新たな彫刻について。なんといっても造形と色彩の自由が放たれています。
躍動感あふれるカタチは、例えば、瀬辺さんの大好きなダンサーや歌舞伎役者からインスピレーションを得て生まれるそう。
完成した作品は、台座がなければ自立できないような外れた重心をもちます。
これは、飛び上がって地上に降り立つところだったり、逆立ちしようとしているところだったり、途中経過の一瞬のモーション。
一つの作品そのものが、大きな想像をかきたてるインスタレーションだと思います。

最近では、ダンサーやベイシストなどの他分野のアーティストとコラボレイトし、即興のパフォーマンスをなさっています。
いかに既成概念を取り払い、いかにその場の直感だけで形作っていくかを大切にし、瀬辺ワールドができていきます。
作品もご本人も常に進化し続ける“生きざま”が、SO COOL☆





神林學さんという人

何年か前、あるギャラリーで神林さんのワイヤー作品に惹かれ、即買い求めて、家の壁にかけてみました。
う〜ん、なかなかよい。光があたると、壁に影が映り、これまたよい。
大きい壁にあっても小さい壁にあっても、床に置いても、さりげなくずっとそこにあったかのように凛とある。
ただワイヤーをグルグル巻いた人体だけど、なんかグっとくるものを感じる。

瀬辺佳子さんを訪ねたとき、幸運にも、彼女のお友達だという神林さんにお声をかけてくださいました。
お会いする約束の日、洗足駅の前に自転車とともにナイスミドルな神林さんがお迎えに立っていらした。
目黒の閑静な住宅街にあるお宅に向かう道すがら、気さくな語り口と屈託のない笑顔に、私の緊張感がほぐされました。
門扉をあけて雑木の庭を通り抜け玄関に。その庭のあちらこちらに、雨風にさらされて錆びた神林さんのワイヤー作品が
刺さっていました。
居心地のよいダイニングにとおされ、お茶をいただきながら、親戚の家にいるようなホッとする雰囲気の中、いろいろおしゃべり
しました。
神林さんと話していると、きっとたくさんのよいお仲間がいらっしゃるんだろうなぁ、そこに私も加えてもらいたいなぁという気もち
になります。
懐が深くて、ジェントルで、明るくて、「今から一杯呑みにでも行く?」と誘われたら(←妄想)迷わずついていきたくなるような方。
早速、帰りの電車の中で、共通の知人である木工家の杉村徹さんと陶芸家の内田鋼一さんに、
「神林さん、むちゃくちゃ人格者でした!」と報告したほどです。
ご紹介くださった瀬辺さんにももちろん報告。このお二人の共通する人柄には心底惚れこんでしまいました。

お宅の一角に、デザイナーでご友人でもある小泉誠さんによって改装されたアトリエ。
すごい数のトルソーやマスク、ワイヤーマン、版画、エスキス、画集、・・・が、密集してありました。
私がよくお邪魔する陶芸家の方たちのアトリエとは、全く違う空間。
とても楽しい時間を過ごしました。

以前、ネットでみつけたものすごくおもしろいダンボール彫刻をされる本濃研太さんとも、同日アポをとって伺う予定でした。
偶然にもご近所だったので行きかたを尋ねてみたら、なんと、神林さんが本濃さんのファンで、彼の活躍をすごく応援されている
と知りました。
そこから本濃さんとの待ち合わせの場所までご案内くださるということで、胸があったかくなるような幸せなおしゃべりをしながら
ゆっくり歩いて行きました。
神林さんの人望ってスゴいんだろうなぁ。長生きしてほしいなぁ(お年寄りでもないのにごめんなさい)。・・・と素直に思ったのでした。

  
  
  


アウトサイダーアート

何半年ほど前、NHKの“日曜美術館”という番組を観て、強い衝撃を受けました。
“アウトサイダーアート”の特集でした。
(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。
(2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること。
(3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。
これらがその定義ですが、私にとっていかなる概念も先入観も関係なく、文句なく心に大きく響いてくるモノでした。

すぐさま、ネットでアウトサイダーアートの本を購入したら、偶然にも私がテレビで観た作品ばかりが掲載されていました。
そして、都内でそれらの展覧会があることを知りました。
実物を目の当たりにした私は、胸の奥をガシっと掴まれるような感奮を覚え、涙をこらえ鼻水をすすり、一点一点熱い想いで見入ってしまいました。
憑かれた霊に代わって表現されたもの、恋焦がれた末に精神障害を起こし恋愛の妄想を絵にしたもの、どうにも止められない衝動に任せて延々と創作しつづけたもの、・・・・・。
それらは、邪念も理性も誇りも評価も目的も代償も衒いも何もないところの自身から突き動かされ、いわばオートマティックな道具となり得た手がなせる作品。
ただ、ここには各々の強い規則性あるいはこだわりがありました。
独創というよりは、作者の本能があからさまにそこにあるような気がしました。
その露わな表現の像が脳裏にやきつき、知らず知らずのうちに私自身にまとわりついた雑多な虚飾に改めて気づかされる想いがしました。

そもそも、1900年代初頭にヨーロッパの精神科医たちによって発見された芸術だそうです。
この芸術ジャンルは、前衛的表現を追及した20世紀のアーティストたちに多大な影響を与えました。
その後、フランスの画家のジャン・デュビュッフェがヨーロッパ各地から作品を収集し、それらを“アール・ブリュット(生の芸術)”と名づけ賞賛したことから波及しました。

どうしてこんなに心を揺り動かされるのでしょう。
私の娘が3歳くらいの頃、そこにあった青い絵の具で思いのまま描いた絵がピュアで愛おしくて、それからずっと額装して壁にかけてあります。
これは愛情が根底にあるからこそ感動したモノ。
オーストラリアの先住民族アボリジニのエミリー・ウングワレーの展覧会にも感銘を受けましたが、似て非なるもの。
その民族性の影響も強いはずなのでアウトサイダーとも少し違う。先日、私の観たアウトサイダー作品への感動とはまた種類が違うのです。
「ウオォォーっ!!!!!」と声なき魂の叫びが聞こえました。
何かに司られ、無心に創作することが、生きることそのものなのかもしれません。
最近では“アートセラピー”と称して、メンタルな治療に貢献していることを考えると、自己のアウトプットの重要性も認識します。

例の展覧会で観たたくさんの作品の中で、最も私の心を捉えた久保田洋子さんの絵。
20年以上前に初めてジャン・ポール・ゴルチェの洋服を知ったときの感情がよみがえりました。
強烈なまでのスタイル表現です。ある種の猥雑ささえ感じるけれど、モードではない、つきぬけた独特のファッショナブルさがある。
なにものにも代えがたい絶大な魅惑の世界。

その展覧会のキュレーターであり、“ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(滋賀)”のアートディレクターでもある、はたよしこ氏にはこの度大変お世話になりました。
先日、そちらのミュージアムに伺いました。近江八幡の歴史あふれる街並の中にとけこんだ古い町家を改装した建物。
しーんと静まり返った和の空間に置かれたひとつひとつの作品が、今にも動き出さんとする生き物のようでした。

今回、gallery tenの「生きとし生けるもの展」に久保田さんにご出展願い、みなさんにも観ていただける機会に恵まれました。
あわせて、久保田さん他のアウトサイダー・アーティストたちの制作風景などのDVDも放映いたします。
無心に作られたモノに向き合い、鑑賞するというよりは無心に感じる何かがきっとあると信じています。

































        ボーダレス・アートミュージアム
NO−MA

滋賀県近江八幡市永原町上16
tel・fax:0748-36-5018
http://www.no-ma.jp/















上棟の様子。大工さんたち、カッコよすぎる!






住まい塾とヒト・モノ・コト

10年近く前、雑誌をパラパラとめくっていたら、一瞬、私の琴線に触れるページが眼にとびこんできました。
建築家・高橋修一氏が主宰する“住まい塾”の住宅が掲載されていました。
それまで、どちらかというと、コンクリートやガラスで覆われたような超モダンな建物が好みでした。
しかし、その時以来、ウソのように住まい塾の空間が頭に焼き付いて離れなくなりました。

住まい塾の家は、大昔から日本でなされている伝統構法にもとづいて、無垢の木で建てられています。
金物ではなく、大工さんの手業によりノミやノコギリで巧みに加工された、それぞれの部位に適切な継手や仕口でがっしりと躯体が構成される。
これは、デジタル化や工業化というのとは違う意味の日本の伝統的な“ハイテク”。
組みあがった骨組に、さらに大工仕事や建具、左官、板金、設備、造園、・・・・・と、職人さんたちのものづくりの集大成の空間が完成する。
職人さんの手仕事、また、それらをトータルにプロデュースする設計の感覚には頭がさがります。

千葉に引っ越して数ヶ月後、住まい塾の通信に寄稿した文章をご紹介します。
>私たちの周りにある「ヒト」「モノ」「コト」は、互いに密接に結びついて存在する。
>ヤクザのようだが、“仁義”なくしては「ヒト」として成り立たないと思っている。
>私にはたくさんの大好きな「ヒト」たちがいる。
>何かに一生懸命打ち込んでいる、お人好しで損ばかりしている、ぶっきらぼうだけど温かい、言いたい放題だけど正直、・・・・・。
>いろいろだが共通して“仁”と“義”が芯にある。
>昨秋より自宅でギャラリーを始め、多くの作家さんとお会いする機会が増えた。
>作品は作家の「ヒト」を表す。
>私が引き付けられる作品の作家さんには驚くほど共通点がある。
>住まい塾の家という作品についても同様。仁義にあふれた温かい「ヒト」が「モノ」を創りだしているのである。
>私が「モノ」を選ぶときは、まず、カタチから入る。造形が美しい、かっこいい、おもしろい、刺激的、・・・。
>カタチだけを追って失敗することもあるが、最近は経験を積んだせいか失敗率が低くなってきた。
>そもそも住まい塾の家に魅かれたのは、内部空間の美しさだった。
>無垢の木がいいとか、漆喰の壁が気持ちいいとか、構法が優れているとか、これらはずいぶん経ってから感じたことである。
>今でもやはり美しいと思う。
>木と漆喰の量のバランス、建具や造作などの絶妙なプロポーション、天井や壁の曲線、分厚い壁をえぐりとったような出窓などなど、
みごとだなぁとつい見惚れてしまう。
>おもしろくて、楽で、感動する「コト」をいつも探している。それらは今まで外にあった。
>好奇心の塊である私は何かがあると知れば即イノシシのように突っ走っていた。
>多くのものを得られるが、それ以上波及しない、何かもの足らなかった。
>住まい塾の家は「ヒト」「モノ」を呼ぶ。心地よく包み込む温かさと麻薬のような中毒性があり、どんどん誘い込むのである。
>「ヒト」「モノ」が集まれば自ずと「コト」が生まれる。
>家とは、ただ寝て起きて食事するだけの器ではなく、「ヒト」「モノ」「コト」が満ち溢れる幸せな暮らしの“場”であると思う。
>このように意識させてくれた我が家に感謝している。
「人」「物」ときたら「金」といきたいところですが、悲しいかな、それとは無縁なのであります。

この家に住み始めた当初、とにかく一日中眠かった。気がつくと床で居眠り。引越しやら諸手続きやらで体が疲れているせいなのか、
病気になってしまったのか。
しばらくどうしてだろうと心配していましたが、結局のところ、木と漆喰壁の放つ空気と床暖房が気持ちよすぎたということがわかりました。

そんな空間で生活をし始めると、徐々にカラダにしみわたるような意識の変化が起こってくるのに気がつきます。
スタイリッシュなエナメル塗装の家具や、画一的な大量生産のものなどが、全く受け付けなくなる。ピッタリ左右対称なものもなぜか苦手になりました。
どんどんナチュラル志向になり、傷がつこうが朽ちていようがシミがあろうが、その素材そのものがホンモノでなければ気持ちが悪くなってきたのです。
そして、それはモノだけに関わらず、向き合うヒト、やろうとしているコトなどにも、本質にふれようとする欲求がでてきました。
毎日使う道具や食器、家具や絵やオブジェにこだわりを持ち始める。
暮らしの中でいつも側にお気に入りのものがある満足感は、ブランドもののバッグや洋服を身につけたときの満足感とは明らかに違うと思います。
後者がとんがったウキウキした感情なのに対して、前者はほっこりジワジワとした温かい感情。
どちらもハッピーだけど、空気のようにずーっと続く前者が、穏やかで優しいヒトを育んでゆくのではないでしょうか。
五感のそれぞれの感覚が研ぎ澄まされてくるような気がするのは、毎日のあたりまえの生活空間の“気”が血肉になってきている証拠。
ひとつの小さい意識が、次の意識、次の意識へと、ひろがっていくのを肌で感じていきました。

このように述べてくると、私がどんなにすばらしい生活者かと思われるかもしれません。
子供のころからずっとだらしなくて面倒くさがりな自分が、念願のこの新居からは“片付けられないオンナ”を返上するはずでした。
残念極まりないのですが、やはりこの性分は変わらない。それでも上記の立派な(!)意識だけは確実に芽生えてきていて、
このギャップが新たな私の悩みです。
能天気にポジティブに考えると、この意識がもっともっと育ったら、いつかきっと行動にうつす日が来るでしょう。きっと・・・・・。

今会期の初日、特別企画として、高橋修一さんと出展作家さんがたによる“住空間とオブジェについて”をテーマに、トークショーを予定しています。
建築家としての視点、作家としての視点、個人的な視点、生活者としての視点、・・・・・、どんなお話が飛び出すのか楽しみです。
小さな小さな暮らしのヒントを発見し、今後の心豊かなライフスタイルにつながれば、幸いです。

コラム vol.19 "瀬辺佳子さんの彫刻" "神林學さんという人" "アウトサイダーアート" "住まい塾とヒト・モノ・コト"